Dice-7
「シンジ君、お疲れ様。
 こっちの職員があなたを回収に行くから、そのまま待っていて」


「はい」




実験が終了し、職員それぞれが自分の持ち場を片付け始め、リツコとマヤも今回の実験から得られた結果を手早く整理していく。

技術部職員と共に実験の一部始終を見ていたミサトはPCに向かい作業を続けるリツコとマヤに近寄り、若干、興奮の混じった口調で話しかけた。




「で、どうなの?
 初号機は?」


「パイロットにかなりの動揺が見られた以外はまったく問題なし。
 いいえ、正直、ここまで良い結果が出るなんて予想の範囲外ね。
 後はエヴァの操縦技術と、彼自身の身体能力に掛かっているわ。
 後者に関してはあなたの管轄よ、葛城一尉」


「任せてちょうだい。
 ビシバシ鍛えてあげるわよ」


「お願いだから、無茶なことはやめてね。
 貴重なパイロットを戦闘不能になんかしたら洒落にならないわ」


「わーかってるわよ! そんなこと!」




リツコの言い様に心外だと言わんばかりに、胸を大きく張って断言するミサト。

リツコにしても、親友として長年の付き合いであるミサトだからこそ言える冗談だが、正直、この場でやっていることは完全に技術部の管轄であり、ミサトがいても全く役に立たない。

積もる話もあるが、今日ここを訪れた本来の目的を果たしてもらうため、本人が失念しているであろう話を持ち出してみた。




「それより、いいの? ミサト?
 あなた、他にも顔を出さないといけない場所があると思うけど」


「ああ! いっけない!
 ………でも、場所わかんないのよねー」


「安心しなさい。
 もう日向君にこっちに来るように連絡してあるわ」


「あら! さっすがリツコ、気が利くぅ!」


「あ、あの!! 作戦局一課のひゅ……日向ですがッ!
 か、かか、葛城ミサト一尉をお迎えに参りました!!」





そこへタイミングよく日向マコトの声が発令所の出入り口に設置されたスピーカー越しに聞こえてきた。

それをリツコが応対して、日向を中へと入れる。




「あら、日向君、久しぶりじゃない!
 最後に会ったのっていつだったかしら?」


「お、おお、お久しぶりです!!
 おー、おお、おそらくッ!! 半年ほど前のアメリカ第1支部で私が行った研修以来、か、かと!」


「ああ、そうそう!!
 どう? 他のみんなも元気にしてる?」


「も、もちろんですッ!
 皆、葛城一尉が来ることを楽しみにしております!」


「あらー、それならはーやくみんなの所に顔を出さなきゃいけないわねー。
 じゃ、日向君、案内よろしく!」




ご機嫌なミサトに腕を捕まれた日向は、緊張のあまり上ずった悲鳴を上げながら、ぐいぐいとミサトに引っ張られる形で発令所を出て行った




(分かりやすいわね………)




一連の様子を見ていたリツコは、心の中でそう呟くと、黙々と作業を続けるマヤの横に立ち、残った作業を協力して片付け始めた。










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銭湯を連想させる広い浴場で、シンジは全身に纏わりついたLCLを洗い流していた。

湯船に浸かりながら眼前にある富士山の壁絵を見ながら先ほどの実験を思い返す。

全身が何かに繋がれたしまったような、はたまた、もう一枚の皮膚で全身を覆われてしまったような不思議な感覚。

何より、ガラス越しに見た、あの巨大な物体が自分の思った通りに動いた時に感じた驚きの余興は、今も消えずに残っている。



―――――――パシャ




シンジは右手を湯船から出し、目の前に掲げてみた。

そして、2度、3度と掌の開閉動作を繰り返す。




「みんな、笑ってたな………」




エヴァの中にいたときにスピーカー越しに聞こえてきた職員の弾むような声。

ガラス越しには笑顔を浮かべ会話をするリツコとマヤの様子が伺えた。

きっとあの様子なら自分の実験は大成功で終わったのだと思う。




「役に立てたってことだよね、僕……」




自分の人生を振り返ってみて、人に必要とされていると実感できたことなど今まであっただろうか。

物心ついたとき、両親はすでに自分の目の前からいなくなっていた。

現在の扶養主にしても、決して悪い人間とは思わないが、毎月父から送られる高額の養育費があるからこそ自分を引き取り育てていたと思う。

学校では全く周りに馴染めていなかったし、集団で何かをするときはすべて周囲の意見を受け入れ、自己主張は一切してこなかった。

そんな中でいつも自問自答していたこと。


―――――――自分は、本当に必要な人間なのだろうか。


これはシンジに14年間付き纏い続ける最大のコンプレックスだった。

それが、先ほどの実験の最中はどうだろうか。

利害が絡むとしても、リツコはシンジを必要とした。

それだけじゃない、あの場にいた大人たち全員が自分に注目してくれていた。

結果的に実験は成功して、自分は彼らの要求に応えることが出来た。

特殊な状況下とはいえ、シンジは初めて人に必要とされたという実感と、相手の期待に応えることが出来たという満足感に、僅かながら心が満たされるようだった。


湯船から上がり脱衣場に出ると、備え付けられているバスタオルで体の水分を拭き取る。

いつの間に用意してくれていたのか、今まで自分が着ていた制服が綺麗に洗濯され、丁寧に折りたたまれた状態で下着と一緒に籠の中に入っていた。

着替えを終え、忘れ物の有無を確認すると、脱衣場の出入り口のドアを開けて廊下に出た。




「よっ、おはようシンジ君」


「田中さんッ!
 あ、おはようございます」




廊下を出た直後、横から突然田中の声が降ってきた。

短髪が若干上に跳ね上がっていてるのはどうやら寝癖のようで、本人は全く気にしてないようだが、傍から見ると少々間抜けだ。

田中はシンジが出てきた大浴場の出入り口を一瞥すると、再びシンジに向き直った。




「いいねぇ、この時間帯に使ってる奴はいないから貸切りだな。
 広かったろ? ここの風呂」


「はい。
 でも、広すぎてちょっと落ち着かなかったです。
 あの、どうしたんですか?」


「もちろん、シンジ君を迎えにきたんだよ。
 内部の構造に慣れるまでは諜報部二課の誰かが迎えに来るようになってる。
 それに、君が正式にうちの職員になって、俺の役目も少し変わったからね」


「変わった?
 ……どんなでしたっけ?」


「最初はシンジ君が第3新東京市にいる間だけって話だったけど。
 これからはエヴァパイロットとしてうちの管轄に入ったって事かな。
 それで引き続き俺が担当になったってこと。
 まぁ、シンジ君にとっては何も変わらないから気にしなくていいけど、改めてよろしくね」


「あ、はい。
 よろしくお願いします」


「それより、腹減ってるだろ?
 朝飯も食わないで駆り出されたみたいだし。
 ちょうど俺もまだだから、一緒に食べに行こうか?」


「あ、そういえば………」




風呂に入ったことで緊張が取れたのか、シンジは自分が空腹だということに今気がついた。

ここから食堂までのルートは分からないし、かといってこの迷路のような地下施設を動き回るのも気が引ける。

それを考えれば、田中の誘いを断る理由はない、むしろ、この場所で今一番心を許せる存在は田中だけであり、他にもいろいろと話してみたいこともあった。




「あの、行きます」


「よっしゃ。
 奢ってあげるから好きなの頼みな」


「そ、そんな……今度こそ自分で……」


「だから、遠慮なんかしなくていいんだって。
 人が奢ってやるって言ってくれてる時は素直に奢られるもんなの、わかった?」


「……はい」


「はいはい、行こう行こう」




田中にぐいぐいと背中を押されて焦り気味に歩き出すシンジだが、内心、心は弾んでいた。

友人を作らず、他人との交友を避けてきたシンジにとって、他人と食事をするということは恐怖すら感じてしまうことだった。

だから、こうして親しげに自分を誘ってくれる事が嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。

自分に兄がいたら、もしかしたらこんな感じなのかも知れない。

そんな事を考えながら、田中と並んで昨日の食堂へと向かった。










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今日も今日とて須川は機嫌が悪かった。

理由など明快で、今日中に仕上げなければならない書類を受け取りに田中の執務室に行ったところ、もぬけの殻だったためだ。

そこで、MAGIの監視システムを使い本人がどこにいるのか調べてみれば、例の如く警護対象であるサードチルドレンと朝食なぞを取っている。

前々からの須川の不満は、田中のこの過剰とも思えるチルドレンとのコミュニケーションだった。

そもそも諜報部というのは基本的に組織の” 影 ”となる部分であり、よほど緊迫した状況でもないのに警護、護衛対象にべったりとくっ付くのは好ましくないと須川は思っている。

さらに、田中は暇さえあれば、部下に任せればいいような外回りや監視業務、はては警護対象の送迎にまで手を出し始める。

おかげで、管理職として切っても切れない事務仕事はいつもギリギリであり、田中の補佐として各部署のパイプを取り仕切る須川はいつもてんてこまいになってしまうのだ。




(そんでもって、昨日みたいに私に残業を押付けるんだからッ………)




しかし、それでも田中はやるべき仕事はしっかりとこなすのだ。

どんなにギリギリになったとしても、仕事の期限は必ず守り、他部署や関係者に迷惑をかける事はない。

もちろん、それは須川のサポートがあってこそだが、田中の事務処理能力は決して低くはない。

だから、シンジが第3新東京市を訪れた当日に、須川に残業を頼み込むなど稀であり、当日の朝まで及んだ連日の激務のせいで田中の疲労がピークだったことを汲み取り、須川は1週間分の昼食と引き換えに残業を引き受けたのだ。




(なんであんなのが私の上司なの?不公平だわ。
 大体、普段からもっと余裕持って仕事しなさいよ。
 あーでも、なんだかんだ言ってやるべき事はちゃんとやるのよねー。
 あーでもでも、この書類さっさと作ってもらわないとまた届けるのがギリギリになっちゃう……。
 あ"〜、お腹空いた〜!! イライラするぅ〜!!
 絶対に昼飯は奢ってもらうぞぉ………ッ





―――――――――バキリッ




何やら不審な音に近くにいた男性職員が横を見ると、修羅の形相でPCと向き合いながら右手に真っ二つにへし折ったシャープペンシルを握り締める須川三尉の姿が目に入り、電光石火の如く後ずさりした。


”機嫌が悪い須川三尉の半径2メートル以内に入ってはならない”


これは保安諜報部二課に所属する職員達の暗黙の了解だった。










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―――――――ネルフ総司令官執務室

ネルフ本部の最上階に位置し、執務室と呼ぶにはあまりに広い空間に事務机がポツリと置かれている。

床と天井には旧約聖書の中にあるエデンの園の中央に植えられているとされる生命の樹が描かれていた。

現在この場所にいるのはネルフ戦術作戦部作戦局第一課課長の葛城ミサト一尉、ネルフ副司令官である冬月コウゾウ、そして総司令官である碇ゲンドウの3人である。




「明日から戦術作戦部作戦局一課に配属となります葛城ミサトです。
 今後、使徒殲滅における作戦の陣頭指揮を取らせて頂きます。
 どうぞ、よろしくお願いいたします」


「うむ、ここまで長旅ご苦労だったな、葛城君」


「はッ」




直立不動の敬礼を送るミサトに冬月が労いの言葉をかける。

その言葉にミサトがもう一礼返すと、今まで沈黙していたゲンドウが組んでいた両手から顔を上げ、ミサトの目をじっと見つめ唸るような低い声で語りかけた。




「葛城一尉。
 君には使徒殲滅作戦時における全施設、全兵器、全人員の指揮権を与える。
 能力を存分に発揮し、任務を遂行したまえ。
 無論、失敗は許されない」


「はッ、精進いたします!」


「話は以上だ、下がりたまえ」


「はいッ、失礼いたします!」




再び敬礼をし。踵を返すと、随分と離れている出入り口へと歩き出す。

そのまま司令室を後にすると、特定の上級職員のIDカードを使用しなければ作動しないエレベーターへ乗り込み、日向の待つ下階のエレベーターホールへと降り立った。

その瞬間、腹いっぱいに溜め込んだ鬱憤を吐き出すように、ドデカイ溜息を撒き散らした。




ぷっはぁ〜………!!
 あー、いったい何なのよあの部屋!!
 薄暗いは無駄に広いはキモイ絵は書いてあるわで、悪趣味ッたらないわ!!」


「か、葛城さん!!
 声が大きいですよ!!」


「やーね、誰も聞いちゃいないわよ」




目の前に現れた瞬間にとんでもない毒を吐き出すミサトに、日向が慌てて駆け寄りなだめようとする。

しかし、そんな日向の気遣いなど知ってか知らずか、ミサトは腕や首をぶんぶん回して全身のコリをほぐし始めた。

万人が認める美貌とルックスから繰り出されるオヤジ臭いしぐさに一般の男ならば思わず引いてしまうが、そんな姿も日向にとって可愛いと思えてしまうのはひとえに愛の力である。

愛とは偉大だと言わざるを得ない。




「まぁ、これで予定してたところへの挨拶は済んだわねー」


「今日はもうお帰りになるんですか?」


「んー………、いえ、予定外だけどまだ一箇所あるわ」




唇に人差し指を当て数秒考えた末に、ミサトはある人物に無生に会いたくなった。

ミサトはその人物の名前を日向に告げると、日向も合点がいったように携帯を取り出し、その人物の居場所を聞き出し始めた。










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田中との食事を終えたシンジは、自室のベッドの上に寝そべり昨夜と同しくS-DATから流れる音楽をイヤホン越しに聴きながら、満腹時の心地よい倦怠感に身を預けていた。

現在、ほとんどがMP3オーディオプレーヤーにシェアが置き換わっている中で、年代物のS-DATだが、それでも高音質なデジタル音源で再生される無伴奏チェロ組曲第1番は格別な安心感を与えてくれる。

恐らくはゲンドウが昔使っていたのであろう、このS-DAT。

思えば、物心ついたときには手元にあった。

別にMP3プレーヤーが買えなかったわけではない。

扶養主からは人並みの小遣いはもらっていたし、PCもインターネットが出来る環境も整っていたのだから買おうと思えば買うことはできた。

それでもシンジはこのS-DATを使い続けている。

はっきりした理由など、シンジ自身にも思いつかない。

ただ、幼き日に自分を置いて去っていった父と、このS-DATを通して少しでも繋がっていると無意識の内に思っていたのかもしれない。

やがて再生の終わったテープが巻き戻しを始め、しばし無音の時間が流れた時、不意に出入り口のインターホンが鳴った。

また田中かリツコでも訪ねてきたのだろうかと、イヤホンを耳からはずし玄関横のインターフォンのディスプレイを覗いたが、そこに写っていたのはシンジが予想していた人物とは違った。




【あ、はじめまして、碇シンジ君。
 ちょっちお話したいから、中に入れてくれない?】


「へ? あ、えっと………」




ディスプレイの向こうでにっこり微笑みながら手をひらひらと振ってみせるミサトを前に動揺するシンジだが、彼女の顔を見てすぐに実験の際に発令所のガラス越しに見えた女性だと気づいた。

あまりに唐突な訪問に驚いたが、このまま廊下に立たせておくわけになどいかないので、ドアのロックを解除しドアを開けた。




「ど、どうぞ………」


「ありがと♪
 あら、結構綺麗な部屋ねー。
 あんまり使ってる人がいないって聞いたから埃でも被ってるかと思ったけど」




周囲をキョロキョロと見回して感心したように唸っているミサトのテンションに着いて行けないシンジは、どう彼女に対応したらよいのかさっぱり分からなかった。

そうしているうちに、ミサトは洗面所や風呂場のドアを勝手に開けて、どこかのお宅訪問番組のようにつらつらと独り言を漏らしながら部屋の中を散策していく。




「あら? 冷蔵庫の中空っぽじゃない。
 でもまぁ、昨日来たばっかなんだし当然か」


「い、いや……あ、あのッ!
 何か用があってきたんじゃ………?」


「へ? ああ、別に用ってほどの事じゃないんだけど。
 私は葛城ミサト。
 明日からネルフ戦術作戦部作戦局第一課に勤務する……そうねー、あなたの上司ってとこかしら」


「じょ、上司って……、なんだか話がよく…」


「まぁ、要するに。
 有事の際にあなたは私の指示の元、エヴァを操作し使徒を殲滅する。
 エヴァパイロットとしてのあなたの行動は基本的に私の管理下に置かれるってとこかしら。
 もちろん例外はあるけどね。
 気にしないで、今日はあいさつに来ただけだから」




最後まで喋りきったミサトはにっこりと笑いかけることでシンジの警戒心を解こうとしたが、あまりに一方的なミサトの行動と言動によって、シンジは完全にミサトへの苦手意識が芽生えていた。

田中とはどこか違う、どちらかと言うと強引なミサトの明るさはシンジが最も苦手とする部類の物であり、ずいずいとにじり寄るような圧迫感に完全に腰が引けてしまっている。

それでも、上司と言われればこれから先長く付き合っていかなければならない人物なのだろう。

そう考えると邪険な態度を取る事もできなければ、そんな度胸を持ち合わせていないシンジの行動は相手のペースに合わせて早々に退出してもらうことだった。




「そ、そうなんですか。
 よろしくお願いします、葛城さん」


「そーんな他人行儀な呼び方しなくても、ミサトでいいわよん。
 それよりシンジ君、訓練のことは聞いてる?」


「え? 訓練?」


「そう、エヴァの操縦技術はもとより、基礎体力の強化や射撃訓練のプログラムも用意されているわ。
 一応軍事機関だしね、ここ。
 ちなみに教官は私。
 安心しなさい、優しくしてあげるから♪」


「………………」




ミサトの歳を考えていないお茶目なウィンクを投げつけられたシンジは、引き攣りそうになる表情を必死に抑えながらあくまで笑顔を取り繕った。

生物の本能と言えるものなのか、なぜか嫌な予感がしてたまらない。

今シンジの頭の中には、ミサトによって床に放り投げられ、ぶちのめされる自分の姿しか思い浮かばない。

まだほとんど知らない人物であるにも関わらず、そういった事をわりと平気でやらかす雰囲気が目の前の女性には漂っているのだ。




「あら? もうこんな時間かー。
 いろいろ買出しにも行かなきゃいけないし、そろそろ帰るか。
 実はねー、私も昨日こっちに着いたばっかなのよー。
 荷物も整理してないし、面倒ったらないわよねー」


「そうなんですか、頑張ってください」


「よし、それじゃあね、シンジ君。
 また明日も来るから」


「あ、はい、さようなら………」




そう言ってミサトは部屋に入って来たときと同じように手をひらひらと振りながら笑顔を浮かべ出て行った。

ミサトが出て行ったのを確認すると、シンジは盛大な溜息と共に背中からベッドの上に倒れこむ。

やっと出て行ってくれたという安堵感と、自分のあまりに白々しい態度のせいで相手に不快な思いをさせてしまったのではないか、という不安感が同時に押し寄せてくる。

たしかに、シンジにとってミサトのズゲズゲとしたノリは受け入れ難いが、何とか自分との距離を縮めようとしてくれている想いが伝わってきたのも事実だった。

その思いを踏みにじってしまったような気がして、罪悪感がちくちくとシンジの胸を突きまわす。

人一倍小心者で、人一倍他人の優しさを欲しているくせに、そのことに気づかずに常に相手を突き放す。

他人が怖いんじゃない、他人と関わることで自分が傷つくことが怖い。

そんな自分がシンジは大嫌いだった。

ベッドの上に放っておかれたままのS−DATを手に取りイヤホンを耳にはめる。

巻き戻しの終わったテープから再び流れる無伴奏チェロ組曲第1番を聴きながら徐々に訪れる睡魔に逆らうことなく身を預け、やがて静かで規則正しいシンジの息遣いだけが部屋に流れ始めた。






一方、シンジの部屋を出たミサトは、外の廊下で壁に寄りかかり腕を組んで待っていた日向マコトに軽く手を振り、自分の愛車が止めてある駐車場へと歩き出した。

マコトも道案内のため、ミサトの横に並んで歩いていく。




「いかがでした? シンジ君は」


「だめねー、完全に苦手意識持たれちゃったみたい。
 リツコから貰った報告書にもマルドゥックからの報告書にも書いてあった通り、難しい性格してるわ」


「葛城さん、ズゲズゲ押し過ぎたんじゃないですか?」


「当然でしょ。
 14歳のガキに気なんて使わないわよ、私は。
 それより、日向君は会わないでいいの?」


「いいですよ、どうせ自分達は明日会うと思いますから。
 一人ずつバラバラよりも3人一緒の方がシンジ君も混乱しないでしょうし。
 まぁ、マヤちゃんはもう顔合わせが済んでるみたいですけど」




マコトとの会話中もミサトの眉は八の字になった難しい顔のままだった。

シンジといる間、いくつか会話の糸口を散りばめてみたものの、どれひとつとして乗ってはこなかった。

おまけに最後はよそよそしい態度のまま、1つ返事でさようならと来たものだ。

内気な性格なのは承知していたし、そこまで良い反応を期待していたわけではないが、”早くご退出願いたい”という態度が見え見えなのは如何なものか。




( まぁ、初対面だし、後々慣れてくれればいいんだけど。
 あのままだとやりずらいのよねー、色々と )


「葛城さん?……葛城さん?
 着きましたよ?」


「え? あ、ゴミンッ、ちょっと考え事してたわ。
 それにしても早いわね、最初は散々迷ったのに」


「そりゃそうですよ、見当違いなところを行ったり来たりしてれば。
 本部内はエスカレーターやエレベーターが張り巡らされていて、短時間で目的の場所に移動できるように配慮されています。
 慣れれば結構便利ですよ」


「はー、まぁ、全部は慣れってことか……。
 色々悪かったわね、面倒かけちゃって。
 明日からよろしく頼むわ」


「い、いえ! とんでもありません!
 こちらこそ、よろしくお願いします!」




ミサトからの労いの言葉に顔を赤らめたまま直立不動の敬礼をするマコトに、愛車に乗り込んだミサトも運転席から軽い敬礼を返す。

車を発進させて車両運搬用のエレベーターに乗り込むと、地上に到着するまでしばし考え事を始めた。

大抵は今日会ったシンジのことだった。

否、シンジだけではない。

今は重症を負って入院しているが、ファーストチルドレンである綾波レイにも会わなければならない。

レイとは以前に会ったことがあるが、ある意味、シンジ以上の特殊な人間だ。

どちらにせよ接し方には頭を悩ませそうだが、解決の糸口などその時々で見つけていくしかない。

結論に至ったミサトは溜息と共に考えるのを止めた。

地上に到着して山道を下っていく愛車の中で、ダッシュボードからバージニアスリム・ライト・メンソールを一本取り出し火をつける。

体にも美容にも悪いと分かっていながら、心に突っ掛かりが出来るとつい吸ってしまう。

今日はこのままビールとつまみでも買い込んで、明日に備えてさっさと寝てしまおう。

荷物の整理なんてそのうちやればいい。

窓の外にタバコの灰を落とすと、いざ酒屋に向けて愛車のアクセルを踏み込んだ。










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白という色は清潔な印象を与え、精神に安らぎをもたらす効果がある。

だが、目に映るもの全てが不自然なほど白いと逆に色の中に取り込まれ、そのまま消えてしまうのでは、という不安感に苛まれる。

壁、天井、洗面台、ベッド、椅子、シミを見つけることすら困難なこの部屋はそれ自体が異様ともいえる雰囲気を放っている。

そして、ベッドシーツの上に横たわる少女もまた、シミなど見つけようも無いほど透き通る白い肌をしていた。

それだけでなく、少女の頭を覆う晴天の空を思わせる蒼髪は、自身を含め、周りすべての情景と溶け込み鳥肌が立つほど鮮やかなコントラストを見せていた。

それはさながら、光の中に舞い降りた天使を彷彿とさせ、この星に生きるすべての生物をその光で照らしているように思える。

だが、少女の左腕から伸びる点滴のカテーテル、腕や足、頭に巻かれた包帯、左目に当てられている眼帯が、その場所が病院の一室であるという現実を否応にも見せ付けてくる。

そして、少女の傍らの椅子に腰掛け、全身を黒のスーツに包んだ田中もまた、この空間には不釣合いな存在と言えた。

病室に入ってからずっと綾波レイの寝顔を見つめていた田中だったが、諜報部員という立場的にもこの場所にいるのは不自然であり、事情を知らない人間に見つかれば変質者扱いされかねない。

ちなみに、この病室は24時間監視されているので、監視業務に従事している職員の粗方にはバレている。

以上のことを踏まえ、田中はそろそろ通常業務のため部下達のいるオフィスへ戻る事にした。

何よりも、非常に重要な約束事を忘れているような気がしたからだ。




「田中二尉………」




部屋を出ようと椅子から立ち上がった田中の背中にレイのか細い声がかけられた。

後ろを向くと、眼帯のされていない赤い右目がまっすぐに田中を見つめている。

”しまった”と思ったときには既に遅く、ただ申し訳ないという表情で田中はレイのそばまで近づいた。




「ごめん、起しちゃったね」


「いえ……5分ほど前から気づいていました」


「寝たフリ!?」




田中の身を乗り出したツッコミにも特に大きな反応を示すことなく、赤い瞳をまたたかせながら感情の読み取れない小さな声で語り返してくる。




「ここで……何をしていたのですか?」


「うん? いや、様子を見てただけだよ。
 決してやましいことは考えてないよ?」


「なぜ?」


「なぜって、レイちゃんが心配だったから。
 面会謝絶な訳じゃないし、昨日の事もあったしね」


「そう……ですか。
 ……やましい事とはなんですか?」


「いやいやだから、考えてないって……」


「…………?」




微妙に噛み合わない会話を交わす二人だが、田中にとって彼女と接するときのこの状態は既に慣れっこであり、やれやれと言った風に小さい溜息を吐くと、先程まで座っていた椅子をベッド横に引き寄せ腰掛けた。

田中のその様子を見ていたレイは、視線を田中からシミの無い白い天井に移し、わずかに間を置くと何かを思い出したかのように再び田中に視線を向けた。




「田中二尉」


「ん?」


「昨日の…彼は……?」


「彼? ………碇シンジ君のことかい?」


「碇シンジ……碇指令と、同じ苗字……」


「ああ、彼は碇指令のご子息だよ。
 レイちゃんがどこまで覚えているか分からないけど、彼は今日エヴァ初号機の正式なパイロットとして配属されたよ。
 ちなみに諜報二課の担当は俺」




自分から質問した答えが得られたのに、やはりレイの反応は希薄だった。

それでも田中には目の前の少女がしっかりと自分の言葉を受け止め、自分の考えを導き出していることを知っている。

どうしようもないくらい感情を表に出すことが下手なだけで、しっかりとした自我を彼女は持っている。

それは、彼女を気味悪がり近づこうともしない人間が多い中、出会った頃からずっとそばで見守り続けている田中だからこそ理解できることだった。

田中は小さく微笑むと、はだけてしまっていた掛け布団をレイの首元までかけ直し、少々クセの強い彼女の蒼髪をクシャクシャと撫でた。




「じゃ、俺は仕事に戻るよ。
 元気なことも確認できたし。
 それじゃあね」


「はい。
 ………田中二尉」


「ん?」


「―――――来て下さって、ありがとうございます」




少々ぎこちない、それでも溢れんばかりの感謝の心がこもったレイの笑顔がそこにはあった。

普段の彼女しか知らない者なら、その表情にさぞかし驚くだろう

表裏など無い、例えるなら生まれたばかりの赤ん坊が向けてくれる無垢で純粋な笑顔。

それは田中とレイの間にある確かな絆を象徴するものだった。




「どういたしまして。
 また見に来るから、ゆっくり寝てるんだよ」




レイの向けてくれたものに負けないほどの笑顔を返すと、田中は病室のドアを開け、病棟の廊下を歩いていった。










・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・










感情というものは不思議と人から人へ伝染してしまう。

それは”嬉しい””楽しい”といった好感的なものから、”怒り””悲しみ”といった負のものまで様々であるが、後者に関しては特に注意が必要だ。

鬱屈や怒気といった感情は他人へと伝染すると、伝染させた人物の感情さえ害してまう。

そして、その伝染の原因となっている人物は、しばしば周りからの評価を下げられ、自らの首を自らの手で絞める結果になってしまう。

それは自己の感情の抑制を強いられる社会人ほど重要なものであり、周囲の人間とのコミュニケーションを円滑にする上でタブーのひとつだと言える。

しかし、ここに一人、社会人として常識と言えるそのタブーを易々と破ってみせる人間がいた。




「す、すす、須川三尉………?」


「田中あぁぁ!!! あの糞野郎ぉぅがぁぁぁ……!!!
 とっくに昼飯時だろうが、いつまで待たせてんだあのボケェェ!!!
 殺す!! 絶対殺す!! 脳味噌ぶちまけたるぞコラァァァ!!!!!」



「須川三尉!! 銃をッ…銃をしまって下さいぃぃ!!」


「おい!! 誰か田中二尉を呼べ!!
 やばい!! 主に俺らの命がやばい!」





すでに田中への不満と空腹から来る強大なストレスで理性を失った須川は、ホルスターから抜き取ったベレッタM92Fをガタガタと怒りに震える手で握り締め、今にも鉛の塊を辺り一面にばら撒かん勢いで怒号を上げる。

その一触即発な事態に、事務作業が主な業務である非戦闘員は恐怖に震えながら机の下で涙を流し、騒ぎを聞きつけた屈強な諜報部二課の戦闘員達が頭を低くしながら必死の説得を続けている。

その時だ、空気の排出音と共にオフィスの出入り口が開き、強盗に押し入られた銀行のような状態になっているこの場所に、田中が颯爽とした笑顔で入ってきた。




「はい、皆さんおはようございます。
 少々遅くなりましたが今日も張り切って仕事をしましょ………ッ……ッ!?……


「…………………………」




今日からネルフ保安諜報部二課の暗黙の了解は、これまた暗黙のうちに内容修正が行われた。



”須川三尉の機嫌が悪いときは速やかにオフィスの外へ非難しなければならない”
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