Dice-6 |
早朝5時。 蛍光灯の光に照らされた会議室には1つの長机が置かれ、それを取り囲むように4人の男性と1人の女性が座っている。 外部から遮断され窓ひとつないたこの空間は空調が必須であり、そのためのファンの音と冷房の作動音が静寂した会議室では妙に際立って聞こえた。 現在、この部屋ではネルフ保安諜報部の幹部がそろい、緊急の話し合いの場を設けている。 情報の収集、分析など、諜報活動の主業務を担う保安諜報部一課の ネルフ関係者、要人の身辺警護、対人警護や監視活動を行うネルフ保安諜報部二課の田中ヨシノブ二尉。 情報操作をはじめ、ネルフ内外の情報の監視や工作を行うネルフ保安諜報部三課の ネルフ本部、第3新東京市全体の警備を担っているネルフ保安諜報部保安局局長の そして、ネルフ保安諜報部の統括部長である お互いに目を合わせることなく黙っていた5人だが、部長である酒井が操作していたPCから顔を上げ、黒縁めがねの位置を指で直すと、周りを一瞥して口を開いた。 「さて、じゃあ始めましょうか。 北村一尉、お願い」 「はい」 酒井に指名された北村は用意してあった資料を手にその場に立ち上がった。 「皆さん、おはようございます。 お疲れのところ朝早くから集まって頂きありがとうございます。 実は中国第4支部の方でちょっとした事故があり、こうして集まって頂きました」 「あのなぁ、北村。 疲れてることがわかってるなら、ちゃっちゃと話進めてくれや。 俺ぁ、夜勤明けでクソ眠いんだからよ」 北村の隣で腕を組んで座っていた郷田が禿頭をぼりぼりと掻きながらぼやいた。 190近い身長、筋骨隆々の身体にパイプ椅子は窮屈なのかしきりに尻を上げ腰を擦っては溜息を吐いている。 さらに、伸びっぱなしの無精ひげに、目の下にできた隈がわかりやすく彼の疲労度を現している。 「それは申し訳ない。 単刀直入に申し上げますと、何者かに行われたクラッキングによって機密情報の一部が外部に流出した事が今日の午前3時ごろ、中国第4支部にいるうちの職員からの報告で明らかになりました」 「おいおい、なんだそりゃ?」 北村の言葉に郷田が困惑気味な言葉を発する。 「言葉のとおりです。 第4支部の技術開発部に所属する上級職員の一人がMAGIの監視下にあったファイルサーバからどういう訳か個人の端末にデータをコピーして持ち出し、どうやらそこを狙われたようです。 現在流出が確認されているデータはエヴァンゲリオンに関する技術関連の実験データ、報告書、論文であることが確認されています。 詳しいことは峰一尉から」 北村に指名された三課の峰ユキオは数ミリに整えられた坊主頭をひと撫ですると、用意してあった資料を人数分配り、疲労とストレスから来るイライラを抑え付けながら説明を始めた。 「えー……、北村から報告があった通り、第4支部のどっかの馬鹿のおかげで面倒な事になった。 一課と三課、第4支部とで一応調査を進めちゃいるが、ネルフ全体へのサイバー攻撃なんてのは一日平均数百万件を超えていて、とてもじゃないが特定は難しい。 ネルフに敵対してる組織、団体も把握しきれていない上、正直、身内の犯行の可能性も否定し切れねぇ」 「身内からの犯行と言ったけど、原因を作ったその職員が故意に漏洩させた可能性は?」 パソコンに記録を取っていた部長の酒井から投げられた質問に、面倒そうな表情を隠しもせずに峰は用意した答えを述べた。 「それで解決すりゃ楽だったんですがね。 こいつのやったことは確かにクソマヌケだが、白ですよ。 ただ単純に休暇中に自宅で仕事がやりたくて持ち出しただけのようです。 こいつも自分の利用してる端末まで狙われてるなんて思ってなかったんでしょうな。 今後の処置についてはうちの関与するところじゃないが、俺だったら銃殺刑にしてやるところだ」 「峰一尉」 「おっ、悪ぃ、口が滑った」 行き過ぎた言葉を北村にたしなめられ、峰はバツの悪そうな笑い顔で謝罪した。 事件の前日に3日の休暇を取ったばかりの峰にとって、その貴重な時間をぶち壊しにされたストレスは相当強いらしく、普段は快活で気さくな態度が維持できなくなるほどだった。 「あの、質問よろしいでしょうか?」 それまで呆然と話を聞いていた田中が右手を上げた。 ちなみに彼は昨夜シンジと別れてからすぐに仕事を切り上げたため、このメンバーの中では一番血色が良い顔をしている。 もちろん、彼が早めに身体を休めることが出来たのは須川に1週間分の昼食を好きなだけ奢るという契約の元、彼女に数時間の残業をさせたおかげである。 「おう、なんだノブちゃん、言ってみろ」 「漏れた情報の中にチルドレンに関係するものは含まれているんでしょうか?」 「ああ、そうだな……。 さっき言った通り、漏れたのはここ最近の実験データが主な訳だが、その中には当然チルドレンを被験者にしたものも含まれる。 そう考えると、十中八九、一緒に漏れたろうな。 まぁ、情報としての価値なんざほとんどねぇ代物だが、曲がりなりにも機密情報だ。 そいつが得体の知れない連中の手に渡ったって事自体が問題なんだよ」 「まぁ、ネルフに関連している他組織の情報が無傷なのは幸いです。 もしそんな事態になったら、事はネルフ内だけじゃ済まなくなる」 「んなことになったら1週間は執務室から出られんぜ………」 北村の冷静な言葉に峰が頭を抱え込み机の上に突っ伏した。 結局のところ、起きてしまったことは確かに由々しきことだが、エヴァンゲリオンに関する技術など、一部が外部に漏れたところで何か事を起すことなど到底不可能なオーバーテクノロジーの結晶である。 今回に関しては、報告書と始末書でも出せば恐らくはそれで済む話だった。 「まぁ、起きたことはしょうがないわ。 北村一尉と峰一尉は引き続き調査を進めて。 田中二尉と郷田一尉はいつもより警戒を強めて任務に当たって。 何か分かった事があれば私に連絡して頂戴、以上」 「「「「 了解 」」」」 酒井の言葉にその場に座っていた4人が敬礼する。 それを期に、全員、思い思いに席を立ち、会議室から出て行った。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 朝の6時。 シンジは洗面所に立つと、蛇口から出ている水で顔を荒い始めた。 環境が変わると眠れなくなると思っていたのだが、目覚めた時には学生服のままイヤホンを耳に入れっぱなしの状態で、結局あのまま眠りに落ちたのだと気づいた。 目覚ましもかけていないのに自然と目が覚めたのは、元いた家で朝食の支度や扶養主の弁当などを作るため早起きが習慣化していたためだろう。 顔を洗い終え、居間に戻ると、ボストンバックから歯磨きセットを取り出し、歯磨き粉を着け口に咥える。 手を動かしながら、ふと窓の外に目をやった。 昨日、夕日に染められたジオフロントは、今は地上からもたらされる朝日に照らされ、生い茂る木々に地底湖に反射する光がシンジをすっきりとした目覚めへと導く。 同時に、今いるこの場所が昨日まで自分が住んでいた場所とはまるで別の場所のように錯覚させ、何も判らない別世界に一人取り残されたような孤独感と焦燥感が込み上げて来る。 ―――――――ピーピー 突如耳に飛び込んできたブザー音にシンジは勢いよく入り口の方に振り返った。 見るとドアの横に取り付けられているインターホンが赤いランプを点滅させながら来客がいることを知らせていた。 シンジは洗面所に駆け込むと、口の中にあるものを吐き捨て口を濯ぐと、慌ててインターホンに近づき、小型液晶ディスプレイに写っているのが昨日ケージで会った金髪の女性、赤木リツコである事に気づいた。 正直、この女性に良い印象など持っていないシンジは一瞬出るのをためらったが、このまま放置しておくことなど出来るはずも無く、しぶしぶ受話器を手に取り耳に当てた。 「………はい、もしもし」 【シンジ君? おはよう。 よく眠れたかしら?】 「はい、一応………」 【そう。 悪いけど、中に入れてもらえるかしら?】 シンジはドアを開けようと手をかけたが、ピクリとも動かない。 どうすればよいのか分からずもたついていると、インターホンからリツコが指示を出した。 【横に”UnLock ”と書かれたボタンがあるでしょう? それを押せば開くわ 居住区のドアはオートロックで自動で鍵が閉まるから覚えておいてね】 「あ、これかな?」 シンジがボタンを押すとドアに取り付けられた表示が” Lock ”から” Unlock ”へ切り替わり、空気の排気音と共にスライドドアが開いた。 リツコは玄関で靴を脱ぎ、居間に上がりカーペットの上に座り込むと、シンジにも座るよう促し、手元に用意しておいた書類を並べて見せた。 「まずはここに留まってくれた事にお礼を言うわ。 それで、最後に確認するけど、あなたは本当に私達に協力してくれるのね?」 「は、はい……」 おずおずと返答したところでシンジはふと思った。 もしかしたら、今の質問がここから元の日常に戻る最後のチャンスだったのではないだろうか。 そう思うと、なにやらとてつもない失敗をやらかした気分になってきた。 「そう、それじゃあ、ここにサインをしてもらえる?」 リツコは前に並べた書類とボールペンを渡すと、署名蘭に名前を書くように促した。 シンジも言われた場所に名前を書きながら、いま自分がペンを走らせているこの書類がなんなのか考えていた。 恐らくは雇用契約書や誓約書のようなものだろうか。 A4サイズの用紙にびっしりと書かれた文章は読むのを一目で億劫にさせる代物で、文章の冒頭を流し読みしただけで大抵はさっさと次の書類へと移っていった。 「ありがとう。 これは控えよ、無くさないようにね。 これであなたはネルフの正式な職員になったから。 それじゃ、行きましょうか」 「え……、行くってどこへですか?」 「これからいろいろな検査を受けてもらうわ。 その次に、もう分かってると思うけど、昨日見た、あのエヴァンゲリオンに乗ってもらうわ。 他にも話しておかなければならない事もあるし、とりあえず部屋を出ましょう」 「え、あ、わ、わかりました……」 返事を聞いて足早に部屋を出て行くリツコの後ろをシンジは黙って付いていく。 わずか数分と言う時間、その短い時間で少年の人生は180度違う方向へと進み始めた。 それは初めて、少年が自らを人生の中に投げ込んだ瞬間だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ エスカレーターを下り、職員の入り乱れる通路をいくつも通り過ぎ、入り組んだ通路を進んだ先にエレベーターが見えた。 中へ乗り込み、リツコがボタンを操作すると、気味が悪くなるほど静かに動き出したエレベーターは、各階を利用者に示すアナログ表示機のカチリカチリという音だけが響いていた。 重苦しい沈黙が続いたが、まるでそのタイミングを計っていたかのようにリツコがシンジに向き直り口を開いた。 「シンジ君、セカンドインパクトは知ってる?」 「え…? あ、はい。 今から15年前に南極に大質量の隕石が落ちて、大勢の人が亡くなったって。 その後に世界中で紛争が起こって、世界人口が半分にまで減ったって学校では習いました」 「そうね、表向きは」 「表向き?」 シンジがリツコの返答に疑問を投げかけたところで、高い鐘音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。 構わずに歩き出したリツコから離れないように歩幅を合わせながら、シンジはリツコの話の続きを待った。 「歴史というのは昔から往々にして隠蔽、改変されるものよ。 15年前、人類は南極で正体不明の人型の物体を発見したの。 そこで、その物体の調査のために調査隊が現地に派遣されたわ。 でも、その調査中に原因不明の大爆発を起したの。 これがセカンドインパクトの正体」 「そ、そんな………」 「さらにイスラエルで発見されたある古代文書に、このセカンドインパクトの予言、そしてこれから先に現れる使徒と呼ばれる人類の敵となる生命体の出現についての記述があった。 研究の結果、最初に南極で発見されたものを含め、この使徒と呼ばれる生命体を殲滅できない場合、セカンドインパクトと同等、またはそれ以上の大災害、サードインパクトが起こる可能性が浮上したの。 もしそれが起こってしまったら今度こそ人類は滅亡してしまう。 つまりこのネルフは予想されるサードインパクトを未然に防ぎ、使徒と呼ばれる生命体の殲滅を目的とする組織というわけ。 簡単に説明したけど、理解してもらえたかしら?」 「………………」 理解できたか、と聞かれても、あまりに唐突でなおかつ非現実的な話に、シンジはリツコの顔を凝視したまま黙り込んでしまった。 セカンドインパクト。 それまでの人類が遭遇した災厄の中で最も畏怖され、その時代を生き延びた人間に、今もなお悪夢を見せ続ける忌々しい記憶。 一瞬で南極の氷を融解させ、生態系の破壊と、ありとあらゆる天変地異を巻き起こし、世界を巻き込んだ大紛争の引き金となった未曾有の大災害。 ものごころ付いた頃から安全圏で不自由なく暮らしてきたシンジにとって、テレビの向こうから流れてくる悲惨なニュースは、同じ日本国内の出来事でもどこか他人事で別世界のように感じ、ただ淡々と流れる平和な時間を自分の殻に閉じこもって生きてきた。 だが、聞き入れ難いリツコの話も、自分が今いるこの大規模な組織自体が、この” とんでも話 ”が真実であるとういう紛れもない証拠であり、受け入れるしか術はなかった。 「あ………あの、じゃあ、僕の役目って………」 シンジが言葉を搾り出した直後に、リツコは扉の前で立ち止まった。 「あなたの役目はサードインパクト阻止のため、使徒と戦い殲滅すること。 そのための最終兵器が汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンよ」 リツコが開いた扉の向こうには大勢の技術部職員がひしめきながら様々な電子機器を操作し、オペレーターがその進行具合を各人員に報告していた。 ドア付近にいた職員の数人がシンジの存在に気づき、視線を向けてきたが、今はシンジ自身よりも目の前の仕事に集中しなければならない状況であり、すぐに視線をはずして仕事を再開する。 シンジはその部屋を見回し、そして見つけた。 紫のカラーリングに鬼の角のような物が突き出た頭部。 分厚い特殊強化ガラスの向こうに広がる真っ白な実験場に佇むエヴァンゲリオン初号機を。 そして、ガラス越しにそれを見つめる父、碇ゲンドウの後姿も。 「こっちよ、付いてきて」 部屋の奥に通されると、そこは病院の診察室のような部屋で、中には数人の白衣を着た技術部職員が立っていた。 リツコは二言三言、その職員達と会話を交わすとシンジの方に向き直った。 「それじゃ、そこに座って。 まずは血液検査から始めるから。 朝食はまだ取ってないわよね?」 シンジはリツコからの質問に、頭を上下に振ることで答えた。 パイプ椅子に腰掛け、大人しく袖をまくって施術台の上に腕を乗せる。 白衣をきた男に、静脈の上部にゴムを巻きつけられる自分の腕を眺めながら、ここに残ると決めた自らの決断を心の底から後悔していた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ネルフ本部内のとある場所。 蛍光灯の光が照らす人気のない通路にハイヒールの音が小気味良く響き渡る。 大きなスリットの入ったミニスカートを着こなし、そこから伸びるスレンダーでセクシーな足と、スーツの上からでもはっきりとその存在を主張する豊満な乳房は、どんな男でも一撃で魅了するに十分な威力を持っている。 そして、その恵まれた体系に勝るとも劣らない美貌と艶のある黒髪。 万人が美人と認めるであろうその女性は、気品あふれるその歩みを止め、赤いジャケットから一枚の地図を取り出すと、しばらくの睨み合いの末に自分の前髪を掻き揚げた。 「ここ、どこかしら………?」 万人が認める美人は完全に道に迷っていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ガラスで区切られた6畳ほどの喫煙スペース。 2台の自動販売機から出るモーター音と換気扇の回る音が響き、こまめに掃除はされているのだろうが、隠し切れないヤニ染みのせいで清潔感には若干欠ける。 設置されている赤いベンチに腰掛けてタバコを口に咥えながら、田中は携帯の待ち受け画面に表示されている写真をぼんやりと眺めていた。 場所はどこかの港だろうか、背景に青い海と漁船が写っている。 最前面に写っているのは、ピースを作って満面の笑みを浮かべる、歳は小学校低学年くらいの顔のよく似た男の子と女の子。 その2人の後ろにしゃがみこんで、両手で同じくピースを作る小学校高学年くらいの女の子。 ―――――そして、その3人の後ろで腰を屈め、右手に釣竿、左手に針の付いた魚を嬉しそうな表情で見せ付けている少年は、もう遠い昔の自分自身だった。 吸っていた煙草がフィルターギリギリまで減っている。 田中は大きく息を吸い込み、最後の紫煙を吐き終えると、近くに設置されている灰皿に完全に火が消えるまで吸殻を押し付けた。 普段、煙草などほとんど吸わないせいか、ニコチンの血管収縮作用からくる軽度の眩暈に、何とも言えない不快感を感じる。 それでも感傷に浸りたいなら自分以外誰もいないこの場所に、煙草と缶コーヒーという組み合わせは至高と言えた。 田中は先ほどまで眺めていたプライベート携帯をポケットに突っ込み、飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れると、喫煙所の出入り口を開けて廊下に出た。 「あー!! ちょ〜ど良かった!! すみませぇーーーん!!」 突如耳に響いた大声に田中はすぐさま声の聞こえた方へ向き直った。 踵の高いハイヒールにスリットの入ったミニスカートという、動きにくい事この上ない格好をものともせずに、全速力で走ってくるすごい形相の女性。 女性は田中の1メートルほど手前で急停止すると荒い息を整え、興奮に引きつった表情を無理やり笑顔に変え、ずいっと田中に押し迫ってきた。 「な、何か……?」 「はぁ…はぁ…、ぎ、技術部の……技術部の赤木リツコのところに行きたいんだけどッ! 道に迷っちゃってッ………はぁ…、案内してもらえないかしら……?」 「赤木博士に?」 赤木リツコには立場上階級はないが、ほとんどの職員は” 博士 ”と付けて呼称していたため、いきなり呼び捨てにする目の前の女性に若干の不信感が沸いた。 ただ、よく見てみると彼女の着ている赤いジャケットに自分と同じ襟章が付いている。 準軍事機関であるネルフ専用の階級を表す襟章。 おまけにその階級は一尉であり、自分よりも上の階級である。 これほどの上級職員であれば、田中が知らないはずは無いのだが、とりあえず目の前の人物が誰であるか確認する事にした。 「失礼ですが、IDカードを提示していただいてもよろしいでしょうか?」 「ええ〜!? ん〜、まぁ、仕方ないか〜。 はい」 「恐れ入ります」 田中は渡されたIDカードを見て驚いた。 撮られるのがよほど嫌だったのか、カードに写っている写真は眉間に皺がよった不機嫌顔。 それならまだいい。 それ以外にカードに記載されている基本情報のほとんどを黒のマジックか何かで塗りつぶしてあり、分かるのは名前と性別と階級のみだ。 国際公務員の身分証明書に何をさらしとんじゃ、と言いたい衝動を飲み込み、腰のベルトにつけたホルスターからPDAを取り出すと、側面にあるカードリーダーに通す。 取り込まれたカード情報は瞬時にネルフ人事部のデータベースへアクセスし、わずか数秒でカードの持ち主の情報を端末へと返してきた。 「葛城……ミサト一尉ですね。 失礼ですが、こちらの情報では本部での正式な勤務は明日からになっていますが……?」 「確かにそうなんだけど、今日は挨拶がてらに顔を出しにきたのよ。 自分が配属される部署の様子も見たいし」 「………少々、お待ちください」 ミサトにIDカードを返すと、上着の胸ポケットから業務用の携帯を取り出し技術部への内線番号をダイヤルした。 数回のコールの後、電話に出た技術部職員にリツコへ内線を回すように頼み、さらに待つこと数秒でリツコの声が電話口から聞こえてきた。 【はい、赤木ですが】 「お忙しいところ恐れ入ります。 諜報部二課の田中ですが、上階のE-12ブロック付近で葛城ミサトという方が赤木博士の場所へ行きたいと尋ねてこられたのですが、赤木博士はご承知でしょうか?」 【はぁ? ミサトが!? 今そこにいるの?】 「はい」 【………悪いけど、ちょっと電話を変わってもらえるかしら?】 「了解しました」 田中から電話を渡されたミサトは、苦虫を噛み潰したような顔をしつつも、おずおずと電話口へと喋りかけた。 「や…やぁ、リツコ! ひっさしぶりじゃない!!」 【” 久しぶり ”じゃないでしょ! あなたって人は!! こんな朝っぱらから断りもいれずにうろちょろして迷子になるなんて!! こっちは大事な実験の準備中よ!?】 「ちょ、ちょっと〜、迷子になったなんて誰も言ってないじゃない!」 【そんな見当違いな場所をほっつき歩いてる時点で迷子だって分かるわよ!】 「ぐっ………」 田中は完全に図星を突かれ悔しそうに顔をしかめるミサトを見て思わず苦笑いした。 一時は不審者と疑ったが、電話から聞こえてくる会話を聞く限りは葛城ミサトの訪問は赤木リツコも承知しているようなので、田中にとってはそれで問題は無かった。 【はぁ、もういいわ。 そばにいる彼に代わってくれる?】 「へーへー、わかったわよッ ……はい、あなたに代われって」 田中はミサトから携帯を受け取ると受話器を耳に当てた。 「代わりました、田中です」 【ごめんなさいね、手間取らせて。 悪いんだけど、そこのおバカをエヴァ第2実験発令所まで連れてきてくれないかしら。 いま忙しくて、そっちまで行っていられないの】 「了解しました」 【じゃ、お願いね】 相手が電話を切ったことを確認し、こちらも通話を切った。 なにやら背後でぶつくさと文句をたれながらこちらに気づいていないミサトの肩をぽんぽんと叩き、こちらに気づいてくれた上で話を進める。 「先ほどは失礼いたしました。 これから赤木博士のいらっしゃる第2実験発令所までご案内します」 「いいえー、こちらこそ面倒かけちゃって悪いわね。 IDカードは使えたから勝手に入ったんだけど、地図見てもぜーんぜん分かんなくって」 「何しろ広いですから。 私も未だにすべて把握しているわけじゃありませんし」 2人は会話をしながら地下へと向かうエレベーターのある方へ並んで歩き始めた。 「ところで、名前なんていったっけ? 電話口で名乗ってたと思うけど、聞き逃しちゃって」 「田中ヨシノブといいます。 階級は二尉で、保安諜報部二課で課長をしております」 「やっぱ諜報部かぁー。 でも、なぁーんか他の連中と感じ違うわよね。 トレードマークみたいになってるサングラスもしてないし」 「よく言われますよ。 サングラスをしてないのは、ただかったるいし、邪魔なだけです」 「あはは! やっぱ変わってるわ!」 口元押さえて笑うミサトに、田中も釣られて声を出して笑った。 同時に目の前のエレベーターが開き、2人は中へと乗り込む。 田中がボタンを押すと、エレベーターは地下へ向けて動き出した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ かれこれ1時間ほど経過しただろうか。 あまり縁のない不慣れな検査を多くこなしたせいで、シンジはかなり疲れていた。 今は慌しい発令所の隅で椅子に座ってぼんやりと周りを見回している。 最初にこの場所に入ったときにいた父の姿はすでになく、あいかわらずガラスの向こうにはエヴァ初号機が佇んでいる。 それにしても、まるで特撮映画かロボットアニメにでも出てきそう風貌で、およそ現実的ではない。 もしかしたら、自分はまだ夢を見ていて、目が覚めたら京都にある自宅のベッドの上にいるのではないだろうか。 「まったく、本当に抜けてるんだから………」 シンジがありもしない想像に浸っていると、リツコが携帯を片手にシンジの方に向かってきた。 そういえば、先ほどまで電話口でなにやら怒鳴っていたような気がしたが、何かあったのだろうか。 リツコはシンジの目の前まで近づくと、眉間にシワのよった表情を元に戻し、シンジに話しかけた。 「悪いわね、待たせちゃって。 これからエヴァンゲリオンの起動実験を始めたいんだけど、いいわね?」 「……はい」 シンジはリツコの声にそっけなく答えた。 当然だが、シンジは実験などやりたくはない。 だがここまで来た以上、もう自分の意思ではどうにもならないのだから、いつものように周りに流れに身を任せてしまうのが一番楽だった。 「そう言ってもらえると助かるわ。 山本君、お願い」 リツコに指名された男性職員に付いて行くと、ロッカーとベンチの置かれた小部屋へ案内された。 男性職員がロッカーを開けると青と白のウェットスーツのようなものを渡され、全裸の状態で首の部分から着込むように指示される。 なにやら見た目は非常にボテッとしており、明らかにシンジの体系には合わない気がしたが、着用したら声をかけろ、と言った後、男性は部屋を出て行ってしまったので、仕方なく全裸になり、指示通りに着用した。 「あのっ! 終わりました」 シンジの声に再び部屋に入ってきた男性は、シンジがサイズのことを指摘する間を与えることなく、左手首についているボタンを押すように指示を飛ばす。 スーツがズレ落ちないように押さえつつ、言われたとおりにボタンを押すと、空気の排出音と共にシンジの体系に合わせて一瞬でサイズが変化した。 「す、すごい………」 突然の事で思わず声が出てしまったシンジだが、自分の体をまじまじと見てみると、身体のラインがくっきりと浮かび上がり、かなり恥ずかしい状態になっている。 なんとかならないかと、目の前の男性職員に問おうとしたが、やはりシンジが言葉を発する前に、次の指示が飛んできた。 「それじゃあ、こっちにきて」 「えっ、あ、はい………」 小部屋を出て、さらに男性について廊下を進むと、ここを訪れて最初に見た初号機ケージと同じ、横に端末のついた大型で頑丈そうなゲートの前にたどり着いた。 男性が端末を操作し、扉が開くと、床が強化ガラス張りで眼下にエヴァ初号機を見ることが出来る部屋へと入る。 その部屋にも、先ほどまでいた発令所と同様、様々な電子機器と白衣を身にまとった技術部職員達が待機しており、その職員達が取り囲むようにしている巨大なカプセル状の物体が目に入った。 「じゃあ、シンジ君。 この中に入ってもらえるかな?」 職員の一人がシンジの背中を押しながらハッチの開けられたカプセルの中へと誘導する。 中は上部に設置されている赤色灯の光に照らされ、リクライニングシートのようなものと舵のような物があることが確認できる。 見た目以上に広いスペースに身体を預けながらシンジはハッチの閉められたカプセルの天井を見上げた。 ネルフに着いてすぐに見させられた零号機の起動実験映像。 おそらく、自分が今乗っているのは映像の中でエヴァ零号機の背中から強制射出されたあのカプセルだろう。 だとしたら、自分の場合も、あの映像のような事故が起こる可能性があるのだろうか。 「それは嫌だな、無事に終わればいいけど………」 誰にも聞こえない小さな声で、ひとりごちる。 思い浮かぶのは全身を包帯で巻かれた少女の姿。 彼女には気の毒だが、シンジは自分自身があんな状態になるのは絶対に御免蒙りたいというのが本音だった。 今はただ、何も問題なく、さっさとこの実験が終わる事を願いながら、シンジは最初に受けた検査の疲れを癒すように目を閉じて、シートの背もたれに身体を預けた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「赤木博士、葛城一尉をお連れしました」 【いま開けるわ】 電子音と同時にドアが開き、扉の向こうにリツコが仁王立ちして待っていた。 そんなリツコに対し、ミサトは取り繕ったような笑顔を浮かべ、「やぁ」とでも言うように片手を挙げて見せた。 「ひ、久しぶりね、リツコ」 「葛城一尉、今は時間も無ければ人も足りないの。 あまり面倒をかけないで頂きたいわ」 「だ、だから何べんも謝ってるじゃない!」 リツコの冷静な嫌味に顔を真っ赤にして悔しがるミサト。 その騒ぎに気づいたのか、他の技術部職員の視線が入り口に集中するが、当の本人達は全く気にしていなかった。 「でも、ちょうどいいわ。 あなたにも関係のある実験をこれからするから見ていきなさい」 「私に? いったいどんな?」 「サードチルドレン、碇シンジのエヴァ初号機起動実験よ。 彼の経歴書はメールで送ったはずだから見てあるでしょ?」 「あら、本当に………? ナイスタイピングじゃない、早起きした甲斐があるってもんだわ」 リツコの言葉に、玩具を見つけた子供のような表情になったミサトは、足早に発令所に入り、初号機の見える強化ガラスの前に陣取った。 「それでは、私はこれで失礼します」 「悪かったわね、仕事増やしちゃって。 また、外に出向く機会があったらよろしく頼むわ」 「ええ、お任せください。 それでは」 役目を終えた田中はリツコに軽く敬礼をすると、自分のオフィスを目指し、もと来た道を戻っていく。 上階へ上るためのエレベーターが下りて来るのを待っている時に、ふと、現在エヴァ初号機の起動実験が行われているであろう、先ほどの司令室の方を振り返った。 「似てるのかも知れないな。 レイちゃんも、シンジ君も……」 ボソリと呟いた独り言の直後、鐘音と共に開いたエレベーターは田中を乗せて上階へと上っていった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「それではこれより、被験者碇シンジによるエヴァ初号機起動実験を開始します」 発令所に響きわたったリツコの声に、技術部職員の緊張が高まる。 現在、この場にいる職員のほとんどは綾波レイの零号機起動実験の際に居合わせたメンバーであり、身の危険を感じたそのときの恐怖が否応なしに蘇っていた。 今回の実験のメインオペレーターを勤める伊吹マヤもそれは同じであり、昨日渡されたマニュアルを頭に叩き込み、あくまで万全の体制で臨んではいるが、不安は拭いきれなかった。 だが、そんな重い雰囲気の中、一人だけ目を輝かせて実験を見守る女性、葛城ミサトがいた。 これまでアメリカ第1支部で勤務していたミサトは、知識こそあったものの、エヴァを目の前にするのはこれが初めてであり、パイロットとシンクロしたエヴァがどのような物なのかは全くの未知だった。 どちらにしても、使徒に対して特別な感情があるミサトにとって、唯一の対抗兵器であるエヴァは自らの希望を叶える大切な道具の一つであり、期待が膨らむのは当然だった。 「シンジ君、聞こえる? リツコよ」 【………はい、聞こえます】 「へぇー、この子がシンジ君? 結構カワイイ顔してるじゃない」 「ミサト、黙ってて。 シンジ君、これからあなたがいるその中に、LCLという液体を注入するわ。 我慢せずに、息を吸う要領でその液体を思い切り肺に吸い込んで。 肺がLCLで満たされれば直接酸素を取り込んでくれるわ。 ……マヤ、始めて」 「了解、エントリープラグ注入」 「ちょ、ちょっと待ってください!! 液体って………!?」 天井に設置されているモニタに映ったシンジの姿にミサトがちゃちゃを入れたが、リツコがピシャリとそれをいなす。 リツコの指示にマヤがキーボードを操作すると、シンジの足元から赤い液体が勢いよく競り上がってきた。 こんな狭い空間に突如水が流れ込んでくるのだから、当然シンジはパニックを起してその場に立ち上がり、何とか水から逃げようと必死にもがき始めた。 【うわぁ! 本当に水が!! 溺れるよ!!】 「シンジ君、落ち着いて。 さっき言ったとおり、息を吸う要領で思い切り水を吸い込んで」 【そ、そんなこと言われたってッ………うぐぅ】 シンジは水が口内に浸入しないように必死に口元を押さえつける。 だが、そんな抵抗は長く持つはずも無く、観念したように肺の中の空気をいったんすべて吐き出し、鼻と口から一気に液体を吸い込んだ。 【んぅ……おぇ………】 「それでいいわ。 心拍数がかなり上がってるから、とりあえず落ち着きなさい」 鼻の粘膜に液体が入ったせいで奥がジンジン痛み、空気の変わりに水が肺の中と外を出入りする感触は吐き気すら覚える。 それでも無理やり自分を落ち着かせ、呼吸を続けていると徐々に慣れ始めてきた。 「大分落ち着いたわね。 それじゃあ、始めるわよ。 ………主電源、全回路接続」 「了解。 主電源、接続完了 起動用システム作動開始」 リツコの一声で、一気に発令所の人員が慌しく動き始め、オペレーターたちの声が響き渡る。 電化されたLSLに満たされたエントリープラグの中はまばゆい光に満たされ、やがて、壁がすべて取り払われたように360度外を見渡せる状態に変化する。 その光景にシンジは強い衝撃を受けつつも、周りの状況を把握しようと周囲を見渡した。 すると、強化ガラスの向こう側に先ほどまで自分が検査を受けていた発令所が見え、そのそばにリツコ、マヤ、そして、赤いジャケットにミニスカートの見知らぬ女性が立っていた。 そういえば、先ほど妙に砕けた口調の声が聞こえた気がしたが、もしかしたらその声の主はこの女性なのではと思い、シンジはしばらくミサトを眺めていた。 「シナプス挿入 結合開始」 「パルス送信 初期コンタクト異常なし」 「チェック2550までリストクリア」 「第3次接続準備」 ディスプレイに表示されたルーチンリストが、赤からクリアを意味する緑へと変化していく。 やがてリストは、起動に必要な絶対領域へと差し掛かる。 ここは綾波レイの起動実験の際にトラブルが起こった部分であったためか、職員の緊張がピークへ達していく。 マヤは手元のディスプレイを見ながら徐々に変化する数値と点滅を繰り返すルーチンリストを見つめながら慎重に端末を操作し、ミスのないオペレーションを維持し続けた。 「………絶対境界線まで、あと、0.9、0.8、0.6、0.5、0.3、0.2、0.1……… 突破!!」 マヤの叫びにも似た声に、周囲の職員にもざわめきが広がる。 起動に必要な領域をすべてクリアした後、残されたルーチンリストは急激なスピードで緑へ変化し、常に変化を続けていた計測器やグラフは一定の値を維持した状態で安定し始めた。 一方、初号機の中で、ずっと司令室のやり取りを聞いていたシンジも、マヤの声の直後に全身に不可思議な感覚が広がっていくのを感じていた。 まるで、自分の全身をもうひとつの皮膚で包まれているような軽い圧迫感と、言葉で表現できない、別のものと一体になってしまったような感覚。 未知の経験に戸惑いを隠せないシンジは、身をよじりながら全身を確認したが、特に自分の体に変化は見受けられない。 そうこうしていると、スピーカー越しにリツコの声が飛び込んできた。 「シンジ君、たった今、あなたとエヴァは” シンクロ ”という状態になっているの。 今のエヴァは、あなたの手足のように思ったとおりに動かすことができるわ。 これから拘束器具をはずすから、こちらの指示があるまで動いてはダメよ。 …マヤ。」 「はい。 拘束具、全ロックボルト解除」 マヤの操作により、エヴァ初号機を固定していた拘束器具がはずされる。 同時にシンジの背中に纏わり突いていた圧迫感がなくなり、エヴァ初号機は実験場の壁際に棒立ち状態になった。 「いい? シンジ君。 ゆっくりと、掌を開いたり閉じたりしてみて。 自分の体を動かすのではなくて、頭の中で動きを思い描くの。 そこは狭いから、ゆっくり、慎重にお願い。 マヤ、数値はどうなってるの?」 「シンクロ率46パーセント、ハーモニクス、すべて正常です! 初シンクロでこの数値はすごいですね」 理解不能な専門用語を交えて話すリツコとマヤの会話をスピーカー越しに聞きながら、シンジは言われたとおり、両手の開閉を繰り返す動作を頭の中で思い描いた。 その思考から若干遅れる形で、エヴァ初号機の両手がシンジの思い描いた通りの動作を繰り返す。 最初こそざわめいていた発令所の中だが、現在は必要なデータ採取のため、各職員が設置されている機器に付きっ切りになっていた。 その後も、リツコは細かい身体動作をシンジに伝え、時折、体調や気分など、状態についての質問を重ねながら30分ほど実験は続いた。 |
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