Dice-5 |
田中とシンジはネルフ職員専用の居住区域に直結している長いエスカレーターの上にいた。 お互い言葉を発することはなく、シンジに関しては第1ケージを出たきり俯いたままずっと無表情だった。 一方の田中はガラス越しに見えるジオフロントの広い敷地を眺めている。 地上から差し込む光は橙色に染まり、時刻はすでに夕刻に差し掛かった事が伺える。 黄昏に染まった広大な敷地は、遠くに見える地底湖と相まって見事な美しさをかもし出し、見る者の感性によっては感慨の溜息をつかせるだろう。 そんな景色を呆然と眺めていたとき、、田中は唐突に思い出した。 否、思い出したのではない、体が猛烈に欲したのだ。 よくよく考えてみれば、今日は朝から全く有り付けていない。 これは生物としてあるまじき事態、まさに非常事態だ。 「シンジ君ッ!」 「ッ!!」 突如、降ってきた大声にシンジは跳ねるように顔を上げた。 完全に不意を突かれたため、心臓がはち切れんばかりに脈打つ。 目の前の田中の表情は真剣そのもの、いや、焦燥感すら伺える。 今度は一体なんだ? また自分に過酷な要求を突きつけてくるのか? シンジは田中の目を睨み付け、警戒心をむき出しに身構えた。 「腹、減らない!?」 「……………はい?」 がしっと肩を捕まれ、鬼気迫る表情で飛び出したセリフにシンジの目が点になる。 「いや、俺さ。 ここんとこ仕事が忙しくて、朝から何も食べてないんだよ! さっきはいろいろ立て込んでて忘れてたんだけど……。 シンジ君も昼飯食ってないだろ? 一緒に食わない?」 「は、はぁ……」 あまりにも予想に反する言葉にシンジの強張った体から見る見る力が抜けていく。 先ほどの第1ケージでのやり取りで、結局、自分はここに残ることを決めたわけだが、正直、自分がこれからどうなっていくのか、どうしたらいいのかまるで先行きが見えず、不安ばかり感じていた。 それが、目の前の男の一言でこうも簡単に崩されてしまうのは本当に不思議だが、不安や焦りに駆られているより遥かに楽なのは事実だ。 何より、シンジ自身も列車の中でとったコンビニ弁当以外、今日は何も口にしていなかったため空腹だった。 「じゃあ、あの、行きます……」 「おっしゃ! 部屋に荷物置いたらすぐに行こう!」 田中は胸の前でガッツポーズを作ると、わざわざ動いているエスカレーターを全力で駆け上がり始めた。 その行動に又も驚いたシンジだが、こんな場所に置いて行かれると非常に困るので、ボストンバックを肩に掛け田中の後を追いかけた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ―――――【ネルフ本部地下・セントラルドグマ第一発令所】――――― 「へぇ、そんな事があったのか」 コンソールの上に乗せてあるコーヒーカップを手に取り、口に付けたのは、ネルフ中央作戦司令部作戦局第一課付オペレーター、日向マコト二尉だ。 彼が返事を返したのは、第1ケージから発令所に戻って来てから、いまいち元気の無い伊吹マヤ二尉である。 「それにしても、田中二尉は黒服組にしちゃあ、本当に変わってるよなぁ」 「青葉君、その黒服組って言い方、やめようよ……」 両手を頭の後ろで組み、椅子の背もたれに反り返っているのはネルフ中央作戦司令室付オペレーターの青葉シゲル二尉である。 黒服組というのはネルフ保安諜報部を指して呼ばれる”蔑称 ”である。 常に黒のスーツに黒のネクタイ、おまけに黒のサングラスという出で立ちで、同じ組織内でも関わる事が少ない彼らを気味悪がる人間はネルフ内に多く、いつの間にか影でそんな呼称が定着していた。 シゲルに特別悪意があるわけではないが、争いごとを好まず、どちらかと言うと正義感が強いマヤはかなりその呼び方を嫌っている。 マヤにいなされ、シゲルはバツが悪そうに「ごめん」と小さく謝罪すると、日向と同じくコンソールの上に置いてあるコーヒーに手を伸ばし、口に運んだ。 マコトとシゲルは同じ27歳、マヤは24歳と歳が離れていたが、階級が同じという事と、ネルフ就任初期に共に軍事訓練生時代を過ごした事もあり、お互いに仲が良かった。 カップから口を離すと、話の流れを元に戻すようにシゲルが口を開いた。 「まぁ、それにしても、子供相手にえげつないやり方だなぁ」 「仕方ないさ、レイちゃんが怪我しちゃった今こっちには戦力が無いし、どっちにしてもチルドレンの増員は避けられないよ。 指令たちがどこまで計算していたかわからないけど」 「でも……あんなやり方は酷いよ…。 レイちゃんもシンジ君も可哀想……」 シゲルの言葉にマコトが論理的に返すと、今度は顔を俯かせていたマヤが目尻に涙を滲ませながらボソリと呟いた。 そんなマヤの姿にシゲルとマコトはお互いに顔を見合すと” まただよ…… ”といった風に頭をうな垂れた。 この伊吹マヤという人物は情報技術者とオペレーターとしての能力はズバ抜けているが、こと争いごとに関しては一般の人間よりも疎い。 マコトは訓練生時代のマヤを思い出していた。 射撃訓練のときは一発撃つごとに体をびくびくと強張らせ、基礎体力をつけるための走り込みのときは遥か後方を今にも意識がどこかへ逝きそうな表情で懸命に付いて来ていた光景が頭に浮かぶ。 訓練の結果だけを見れば、準軍事組織であるネルフでは到底やっていけそうに思えないが、その類まれなる情報処理能力とシステム開発能力が赤木リツコに認められ、若年で技術開発部の幹部の一人になったのだから、さすがというべきだろう。 そして、これは日向マコト、青葉シゲルの両名にも言えることだった。 ネルフは完全な実力主義・成果主義であり、個々の能力次第でいくらでも昇級していく。 現に有事の際に最前線に立つオペレーターたちのトップはこのマコト・シゲル・マヤの3人なのだ。 「ま…まぁ、マヤちゃん。 とりあえず、レイちゃんは病室で眠ってるし、シンジ君にしたって取って食われるわけじゃないじゃん」 「で、でも……」 シゲルが子供をあやすように宥めていると、背後でドアの開閉音が聞こえ、3人が後ろを振り返った。 「あら、全員いたのね」 「せ、先輩っ!」 発令所に入ってきたのは数冊の冊子を小脇に抱えた赤木リツコだった。 3人のオペレーターの下へ近づいたリツコはマヤの顔を見ると訝しげな表情を見せながら口を開いた。 「マヤ、あなたまだメソメソしてたの?」 「す、すみません……」 「はぁ……、まぁいいわ。 その様子なら3人とも事情が分かってるみたいだし、これ、渡しておくわ。 特にマヤ。 明日は彼の検査や実験を控えているから、ちゃんと読んでおいてね」 3人がリツコから受け取った冊子の表紙には”サードチルドレン・碇シンジに関する基礎情報とオペレーションについて ”と題され、部外秘の捺印がされている。 マヤが渡された物だけが若干厚いのは、翌日に控えたシンジの起動実験に関するオペレーションについての資料が別途で添付されているためだった。 3人がパラパラと冊子を流し読みしていると、リツコが再び口を開いた。 「3人とも、今日は上がっていいわ。 ああ、それと。 日向君、明日ミサトが顔を出すと思うから細かい対応は任せるわ。 シンジ君の所属も作戦部になるし、よろしくね」 「は!? か、葛城一尉がこちらへ!?」 「なに焦ってるの? ドイツにいるアスカも近いうちにこっちに来るし、当然でしょ?」 「あッ、いッ、いやッ…、はっ!了解しました!!」 赤面になりながら、しどろもどろに返事を返すマコトを、シゲルがからかうような笑みを浮かべ、マヤがクスクスと笑った。 その姿にリツコも小さく微笑みながら「お疲れ様」と言葉を残し、発令所を後にする。 「バレバレだな」 「なッ、何がだよ!?」 「別に〜?」 じゃれ合う男共をよそに、マヤはさっそく渡された冊子の内容を真剣な表情で頭に叩き込み始めた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ シンジは目の前で繰り広げられる光景に絶句していた。 信じられない……まさかこんなに…………。 「……食べるんですか? 田中さん……」 「当然! こっちは朝、昼、夕、全部兼ねてるからねー。 食わなきゃ仕事なんてやってられねっての!」 「それにしたって……」 現在、シンジ達がいるのは同じジオフロントの敷地内で、ネルフ本部から若干離れた場所に存在する職員専用食堂である。 働いている職員は一般から公募した民間人であり、地下の居住区に住む職員の食事全般を担っているため、朝の6時から夜8時まで営業をしている。 和洋中の様々なメニューが書かれている食券販売機のカードリーダーにIDカードを通すと田中は意気揚々とボタンを押していった。 ラーメン大盛、チャーハン大盛、餃子3人前、野菜炒め2人前、牛丼並、小皿に盛られたおかず各種に、デザートのケーキが3つ。 自販機に表示されている金額はすでに5千円を越えている。 「ほらほら、シンジ君も好きなもの押して」 「え!? い、いえ、自分のお金で……」 「だーッ!! なに子供が遠慮してんだよ! ほれほれ、押した押した!」 「うわ!! ……じゃ、じゃあ……」 田中に背中をバシバシ叩かれ、シンジは遠慮がちにカレー並みと野菜サラダのボタンを押した。 それをみた田中が「育ち盛りなのにでっかくなれんぞ!」とツッコミを入れたが、出てきたシンジの食券も合わせてカウンターの方へ持っていった。 夕食には時間が若干早かったためか、食堂の中はまばらにしか人がいなかったが、やはりその視線はシンジに向けられており、シンジ自身は再びなんともいえない居心地の悪さに顔をしかめた。 「久しぶり、ヨウコさん。 お願いね」 「あら、田中ちゃん! どうしたの? ここのところちっとも来なかったじゃない?」 「仕事立て込んでてさぁー、ずっと売店の飯ばっかだよ。 今日も朝から何も食ってないし」 「あらあら、大変ねー」 カウンターにいる従業員と思しき中年の女性と親しげに会話をする田中の声に、周囲に向けていたシンジの意識が戻る。 全体的にふっくらとした体系に深い笑い皺と垂れがちな目元、女性の容姿からはその 人の良さが滲み出ている。 女性もシンジの存在に気づくと、すぐに満面の笑みを返してくれた。 「この子は?」 「碇シンジ君。 これからはちょくちょく来るだろうから、よろしくね」 「あなたがたまに連れてくる女の子と同じなの?」 女性の表情が曇り、訴えるような眼差しを田中に向ける。 その問い掛けに、田中は若干困った表情を浮かべたが、首を上下に振りうなずいた。 「シンジ君、この人はこの食堂で店長をやってる 「よ、よろしくお願いします……」 「いいえ、こちらこそよろしくねー。 なかなかハンサムな子じゃない! この時間はムサ苦しい男が多くって嫌になってたのよねー」 「悪かったなー、ムサ苦しくて。 それよか、早くメシメシ!」 「あら、田中ちゃんはハンサムよ? それにしてもすごい量ねー。 時間掛かるから座って待ってなさい」 ヨウコは田中から渡された食券を持って奥に引っ込むと威勢の良い声で料理名を厨房で働く従業員に告げた。 さらに、ヨウコの声に答える厨房の従業員も負けず劣らず威勢が良く、厨房を突き抜けて田中たちの方まで聞こえてくる。 調理に手間取らないシンジのカレーとサラダを受け取ると、田中たちはカウンターから近い4人がけのテーブルに腰掛けた。 「あの……、お先にいただきます」 「そんな畏まらなくていいって。 なんなら、おかわりしたって構わないから」 「……はい、じゃあ、いただきます」 シンジはスプーンですくったカレーを一口食べると、口いっぱいに広がる濃厚な味に目が見開いた。 シンジもそれなりに料理には自信があったが、いま食べているカレーは参考にしたくなるほど旨い。 「旨いだろ?」 「はいっ、おいしいです」 「だろ? ここの料理はヨウコさんが中心になって仕込みをやってるらしいけど。 安いし、旨いし、俺も最初に食べたときは驚いたな」 この食堂の良さをニコニコしながら話す田中に、すでにシンジはかなりの親近感を持ち始めていた。 常に周りの空気に気を使い、流されてきた自分がどういう訳か目の前の男には不思議な居心地の良さを感じている。 それは例えるなら、仲の良い兄と一緒にいるような気持ちに似ているかもしれない。 ともかく、この田中と言う男には人を安心させる雰囲気と包容力が備わっているようだった。 しばらく話しているとカウンターからヨウコの声が響いてきた。 「田中ちゃーん、出来たから持ってってー!」 「はいよー、ありがとう!」 田中はカウンターとテーブルを行き来しながら次々と料理を並べていく すでに自分の食事をほとんど終わらせているシンジは冷や汗を流しながらその光景を目で追った。 目の前の料理はどれも旨そうだが、如何せん量が多い。 すでにテーブルの3分の2ほどを埋めてしまっており、残りのカレーとサラダを食べ終えたシンジは空の皿を重ねてテーブルの端に寄せた。 あらかたの料理を並べ終えたところで、シンジは自分の目の前にイチゴがのったショートケーキと紅茶が置かれている事に気がついた。 「あの……、田中さん、これって……」 「うん? ショートじゃ嫌かい? チーズとチョコもあるから選んでいいよ?」 「いっ、いやっ! そうじゃなくて……。 いいんですか? もらっちゃって?」 「ほんっとうに、珍しいくらいに謙虚だね、シンジ君」 「す、すみません……」 「いやいや、怒ってるわけじゃないよ、そうだなー。 お礼……、うん、俺からのお礼だと思って貰って欲しいな」 「お礼って……、何のですか?」 「レイちゃんを助けてくれたこと。 シンジ君が残るって言ってくれなかったら、多分死んでただろうから」 田中の言葉に、ハッとシンジは息を呑んだ。 心臓の鼓動が早くなり、口が酷く乾く。 シンジはティーカップを手に取ると紅茶を一口飲んでから、ゆっくりと田中の顔を見た。 「……いま、あの女の子ってどうしてるんですか?」 「安定剤を打って眠らせてあるって連絡が入ったよ。 開いた傷はそれほど大したことはないって」 「……そうですか、よかった」 胸につっかえていた不安のひとつが解消され、シンジは少しだけ安堵した。 だが、食事中は忘れていたはずなのに、嫌でも先ほどの記憶が鮮明に蘇る。 傷ついた蒼髪の少女、それを抱きかかえる田中の姿、他人事のようにその場を去る医師たち、ただ眺めるだけの周りの大人。 そして、何より、自分の事を役立たずと呼び、まるで初めからその場に存在しないかのような態度を取った父の姿。 すっかり、下を向いて黙ったシンジに、田中は食事をする手を止め、その掌をシンジの頭にポンに乗せた。 「俺は正直さ、シンジ君はあのまま帰ると思ってたし、それがいいと思ったんだ。 いまの俺の口からは話せないけど、こうなった以上シンジ君にとってろくなことがないと思ったから。 本当はレイちゃんが来ると分かったときに君をもっと早く外に連れ出すべきだった。 だけど、俺も取り乱して、君をほったらかしにしてしまった。 本当にごめんね、シンジ君 そして、ありがとう」 頭に置かれた掌から伝わる温もりがとても気持ちよかった。 考えてみれば、シンジは今までこんな風に頭を撫でてもらった経験が無いような気がする。 母親の記憶はないし、父親とは幼い頃から離れて暮らしていたから。 気がついたら、目じりから涙が出ていた。 でも、これは悲しいからじゃない。 きっと嬉しいからだ。 「ほら、紅茶冷めるから早くケーキ食べな? それとハンカチ、ついでに鼻もかいどけ」 「………ごめんなさい」 「だから、謝らなくていいって」 「すみません………」 「だめだこりゃ、はは……」 ハンカチを目に当て嗚咽を漏らしながらケーキを突つくシンジを見て、田中は小さく笑った。 ふと視線をはずすと、ヨウコがカウンターからこちらを心配そうな表情で見つめている。 ” 心配ない ”そんな含み笑いを返すと、田中も席についてすっかり伸びてしまったラーメンを勢いよく食べ始めた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 食事を終えた田中たちはネルフ居住区のシンジに割り当てられた部屋にいた。 8畳ほどの部屋に、簡易キッチン、家具一式がそろえられ、ユニットバスも完備されている。 中は使われていた形跡が全く無く、新築住宅独特の匂いが立ち込めていた。 「じゃ、これが俺の携帯番号。 こっちの番号が保安諜報部二課の内線。 ところでシンジ君、携帯もってる?」 「はい、先生に渡されたのが一応」 「すまないけど、それはこっちで預からせてもらえる? 明日別のものを支給するから 気を悪くしないで欲しいんだけど、シンジ君が使用する通信機器や位置情報は諜報部の監視下に置かれるから」 「そうなんですか……、なんだかすごいですね」 田中はシンジから携帯電話を受け取ると胸ポケットにしまった。 「ごめん。 この部屋に関しては盗聴器も監視カメラもないから安心して。 防音対策はばっちりだから歌の練習しても大丈夫だよ」 「し、しませんよ! そんなの!」 「ハハハッ、そっか。 じゃ、明日はいろいろと忙しいと思うから今日はゆっくり休んで。 俺が来れるかはわからないけど、時間になったら誰かが迎えに来るから。 京都からこっちに持って来て欲しいものなんかをまとめてくれれば手配するよ」 「はい、わかりました」 「よし。 じゃあ、おやすみ」 「おやすみなさい」 シンジは田中が出て行ったことを確認すると、テレビを付けてベッドに腰を下ろす。 いくつかチャンネルを回してみたが特に興味をそそられる番組は放送されていない。 時刻はまだ19時を回ったばかりで就寝するにも早すぎる。 シンジは付けたばかりのテレビを消し、ボストンバッグから古いS-DATを取り出すとイヤホンを耳にはめ、再生ボタンを押してベッドの上に寝転んだ。 目に映るのはシミひとつない真っ白な天井。 「知らない天井だ…」 シンジのつぶやきは誰にも聞こえることなく虚空に消えた。 |
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